Column

サステナブルという言葉の居心地の悪さ

最近、「サステナブル」という言葉を聞かない日はありません。

衣服も食品も、そして自動車までもが「持続可能」を掲げています。 けれど、その言葉が繰り返されるほどに、私たちは本当に”持続”しているのだろうかと感じることがあります。

「エコ」の裏側と、半世紀磨かれた思想

電気自動車はその象徴です。

音もなく滑るように走り、排気ガスを出さない。

確かに、都市の空気はきれいになるかもしれません。

しかし、バッテリーの製造や廃棄に要するエネルギーや資源の採掘、発電過程での環境負荷までを含めて考えると、それは本当に「エコ」と呼べるのか疑問が残ります。

数字のうえで整えられた”善意の物語”に、私たちはどこか安心してしまっています。

 

一方で、半世紀以上にわたり基本設計を変えずに磨き続けてきた車もあります。

毎年のように新しい流行を追うのではなく、不要なものを削ぎ落とし、人と機械の関係を深める方向へ進化してきました。

それは「変わらないこと」の中にこそ、持続の本質があるという思想です。

 

そして最近、日本車の完成度には驚かされます。

静粛性、足回り、質感、安全性——どれをとっても成熟の域に達しています。

たしかに外車にはブランドという魅力がありますが、自然吸気エンジンやマニュアル車のような”感性に訴える部分”を除けば、今や性能や快適性の面で日本車に勝る要素は少なくなっています。

結局のところ、残された優位性は「ブランド」という名の物語だけなのかもしれません。

時を超える思想が教えてくれる、サステナブルの本質

本来、サステナビリティとは「長く愛されるものをつくる力」だと思います。

法令や流行に従うのではなく、人の心に響く誠実な設計や思想を貫くこと。

それこそが、最も人間的で持続可能なあり方ではないでしょうか。

 

本当にサステナブルなのは、派手な新技術ではなく、静かに時を超えて残る思想のほうなのかもしれません。