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医師賠償責任保険は、本当に医師を守る制度になっているのか

医師として診療に従事している以上、医療事故や医療紛争のリスクを完全にゼロにすることはできません。

どれほど注意深く診療していても、結果が思わしくないことはあります。患者さんやご家族が納得できず、説明を求められることもあります。場合によっては、損害賠償請求、調停、訴訟へと発展することもあります。

そのため、多くの医師は医師賠償責任保険に加入しています。

医師賠償責任保険は、本来、医師を守るための制度です。

医療行為に起因して患者側から損害賠償請求を受けた場合に、損害賠償金や弁護士費用などを保険でカバーします。

そうすることで、医師が過度な経済的不安を抱えずに診療を継続できるようにします。

このように考えれば、医師賠償責任保険は、医療現場にとって非常に重要な制度であることは間違いありません。

しかし、実際に医療紛争の現場に関与していると、この制度が本当に医師本人を守る制度として機能しているのか、疑問を感じる場面が少なくありません。

「弁護士が付くこと」だけでは、最善の代理人とは限らない

特に問題となるのは、医療紛争が発生した後、誰が弁護士を選ぶのかという点です。

多くの医師は、医療紛争が発生すると、加入している保険会社や医師会を通じて弁護士を紹介されます。そして、その弁護士が医師側、病院側の代理人として対応することになります。

一見すると、保険会社や医師会が弁護士を手配してくれるのは便利な仕組みに見えます。

しかし、ここには重大な問題があります。

医療紛争において、本当に大切なのは、単に「弁護士が付くこと」ではありません。

医師の立場、医療行為の内容、診療経過、医学的争点、病院の体制、患者側の主張、訴訟になった場合の見通し、和解の可能性、医師本人の精神的負担、病院経営への影響などを総合的に理解した上で、医師や病院にとって最も合理的な解決を図ることです。

ところが、実際には、保険会社や医師会が選んだ弁護士が、必ずしも医師本人にとって最善の代理人であるとは限りません。

医療の基本的な内容を十分に理解していない弁護士が担当することもあります。

医学的争点を医師と対等に議論できない弁護士が担当することもあります。

医師本人の意向よりも、保険会社や医師会の都合を優先しているのではないかと感じられる対応がなされることもあります。

争い続けることが、本当に依頼者のためになるのか

さらに問題なのは、医療紛争において、早期に解決すべき事案であるにもかかわらず、無用に長期化してしまうケースです。

医療紛争では、すべての事件を徹底的に争えばよいというものではありません。

もちろん、医師側に過失がない場合、患者側の主張が不合理な場合、不当な請求がなされている場合には、きちんと争う必要があります。

医療行為は結果責任ではありません。悪い結果が生じたからといって、直ちに医師や病院が法的責任を負うわけではありません。

その意味で、医師側が不当な請求に対して毅然と争うことは重要です。

しかし一方で、診療経過や医学的証拠を見れば、医師側の責任が相当程度認められる可能性が高い事案もあります。

そのような事案では、早期に合理的な解決を図ることが、医師や病院の利益にかなう場合があります。

医師本人にとっても、病院にとっても、長期間にわたって調停や訴訟に巻き込まれることは大きな負担です。

訴訟が長引けば、医師は何度も事案を思い出さなければなりません。

診療録を読み返し、患者側の主張に反論し、弁護士と打合せを行い、場合によっては尋問で厳しい質問を受けることになります。

病院側も、内部資料の収集、関係者からの聞き取り、医療記録の確認、意見書作成、外部専門医とのやり取りなど、多大な労力を要します。

それにもかかわらず、最終的に敗訴する可能性が高いのであれば、いたずらに争い続けることが本当に依頼者の利益になるのか、慎重に考える必要があります。

弁護士の役割は、依頼者を無理に戦わせることではありません。

依頼者にとって最も合理的な解決を考えることです。

勝てる事件であれば、徹底的に争います

争点がある事件であれば、証拠に基づいて適切に主張立証します

しかし、責任が認められる可能性が高く、早期解決が合理的である事件であれば、依頼者にその見通しを率直に説明し、早期和解を含めた解決を提案する。これが、本来の弁護士の役割です。

ところが、医療紛争の現場では、必ずしもそのような対応がなされていないと感じることがあります。

医師や病院のために早く合理的に解決するという視点ではなく、形式的に争い続ける。

医学的な理解が不十分なまま、抽象的な反論を続ける。

本来であれば和解を検討すべき事案でも、無理に訴訟を長引かせる。

その結果、医師本人の精神的負担は増え、病院の事務負担も増え、患者側との対立も深まり、最終的には判決まで至ってしまいます。

このようなケースを見ていると、医師賠償責任保険の制度が、本当に医師のために機能しているのかという疑問を抱かざるを得ません。

信頼関係なくして、医療紛争は戦えない

特に、医師会を通じた団体保険の場合、構造的な問題もあります。

団体保険では、契約者が医師会であり、被保険者が各医師会員であるという形が取られることがあります。

この場合、医師本人は保険によって保護される立場にありますが、保険契約の枠組みや運用においては、医師会や保険会社の影響が大きくなります。

その結果、医師本人が、自分の代理人となる弁護士を自由に選べない、あるいは選びにくい状況が生じることがあります。

しかし、医療紛争において最も大切なのは、医師本人と弁護士との信頼関係です。

医師は、自分の診療について、極めて専門的で、時には自分にとって不利な事情も含めて、弁護士に正直に説明しなければなりません。

弁護士は、その説明を理解し、医学的な意味を整理し、法的な争点に落とし込み、最終的に裁判所や相手方に伝わる形で主張しなければなりません。

この作業には、強い信頼関係が必要です。

にもかかわらず、医師本人が十分に納得していない弁護士が、保険会社や医師会の都合で選ばれてしまうとすれば、それは医師本人にとって大きな問題です。

医師賠償責任保険は、医師を守るための制度であるはずです。

そうであるならば、医師本人が安心して相談できる弁護士、医学的な争点を理解できる弁護士、早期解決と徹底抗戦の見極めができる弁護士を選べる仕組みでなければなりません。

医療紛争は、単なる金銭紛争ではありません。

医師の専門性、職業人生、名誉、病院の信用、患者側の感情、医療安全、将来の診療体制など、多くの要素が絡み合います。

だからこそ、形式的に保険で弁護士が付けばよいというものではありません。

誰が、どのような理解に基づいて、どのような方針で対応するのか。

そこが極めて重要です。

本当に医師を守る仕組みとは何か

医師賠償責任保険の問題を考える際には、単に保険金が支払われるかどうかだけではなく、医師本人が本当に適切な法的支援を受けられているのかという視点が必要です。

私は、医師として医療現場を経験し、その後に弁護士として医療紛争に関与するようになりました。

その立場から見ると、医師賠償責任保険の運用には、医師側からは見えにくい問題が多く存在しているように感じます。

本来、医師を守るはずの制度が、場合によっては医師の意思を置き去りにしてしまいます。

本来、早期に解決できたはずの紛争が、弁護士選任や方針決定の問題によって長期化してしまいます。

本来、医師のために働くべき代理人が、医師本人との信頼関係を十分に築けないまま事件を進めてしまいます。

このような状況は、医療界にとっても、弁護士業界にとっても、決して望ましいものではありません。

医師賠償責任保険は、必要な制度です。

しかし、必要な制度であるからこそ、その運用が適切でなければなりません。

医師を守る制度であるならば、医師本人の納得、医師本人の信頼、医師本人の利益が中心に置かれるべきです。

医療紛争において、医師や病院が本当に必要としているのは、単に保険会社が手配した弁護士ではありません。

医学と法律の両方を理解し、事件の見通しを冷静に判断し、争うべき事案は争い、解決すべき事案は早期に解決するという、実質的な支援です。

医師賠償責任保険が本当に医師を守る制度であるためには、この点を改めて見直す必要があると考えています。

執筆:弁護士 鈴木 孝昭(MIA法律事務所)